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ホーム > 市政 > 国際交流 > ボッパルト市の概要 > ボッパルトゆかりの人物(シーボルト)

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更新日:2012年2月23日

ボッパルトゆかりの人物(シーボルト)

フィリップ・フランツ・フォン・シーボルト

 シーボルトの名は、誰もが一度は耳にしたことがある名前だと思います。日本の歴史の中でとても有名なシーボルトは、ボッパルトに縁のある人物なのです。

 シーボルトは、1792年2月17日、バイエルン王国のヴュルツブルグ(現在のドイツ連邦共和国バイエルン州ヴュルツブルグ市)に生まれました。

 1823年に長崎出島のオランダ商館医師として来日し、診療にあたるとともに、鳴滝塾を開き、医学や博物学を日本人青年に教えました。また、日本人女性、楠本滝と知り合い、娘いねが生まれました。シーボルトは5年の任期を終え帰国することになりましたが、帰国の際、荷物の中から国外持出し禁止品の日本地図や葵の御紋が見つかり、取り調べの上で1829年10月国外追放処分を受けました。

 帰国したシーボルトは、日本についての研究を行い、博物館を開設しました。その功績が認められ、オランダから爵位が与えられるとともに、ヨーロッパ各国から数々の勲章が授与されました。

 1845年にドイツ貴族の令嬢ヘレーネ・フォン・ガーゲルンと結婚し、3男2女が生まれました。へレーネと結婚してから2年後の1847年から1852年の5年間を、シーボルトはボッパルトで過ごしました。妻のヘレーネが、オランダのライデンの気候が体に合わず、健康を害してしまったのです。そこで、療養のためボッパルト市内のマルチン修道院へやって来ました。このボッパルト滞在中に、シーボルトは著書「日本」を完成させたといわれています。

 シーボルトは、帰国後、「日本動物誌」「日本植物誌」「日本」等、日本に関する様々な本を執筆しました。

 1859年、国外追放を解かれ、長男のアレクサンダーを連れて再度来日し、滝やいね、かつての門弟たちと再会しました。別れた時に2歳だったいねは、シーボルトの門弟たちから医学の手ほどきを受け、産科医として開業していました。2年7か月の滞在の後、オランダへ帰国し、公職を辞して、故郷であるヴュルツブルグ市へ帰りました。そして、1866年10月18日、ミュンヘンで亡くなりました。

 シーボルトの子どもたちは、父の偉業を継ぎ、日本の医学や外交において活躍をしました。

旧聖マルチン修道院

ボッパルトの町外れにある旧聖マルチン修道院。

ボン郵政省の消印付きの切手

(表)

シーボルトの略歴(ドイツ語)

(裏)

 シーボルト生誕200年記念で発行された1996年2月17日付ボン郵政省消印付切手

問い合わせ

部署名:企画部秘書広報課