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記事ID:0000252 更新日:2019年10月28日更新 印刷画面表示 <外部リンク>

青梅市のプロフィール

青梅市の概要

東京都の多摩西部地域に位置し、東京都の2市3町、埼玉県の2市の7市町と隣接しています。
市内のほぼ中央を多摩川が西から東へ貫流し、北部には入間川の支流である霞川と成木川が流れています。東部の平地から、丘陵地、山地と変化し、最高点は鍋割山の1,084メートルです。

  • 市制施行…昭和26年4月1日(全国262番目・東京都5番目)
  • 位置(青梅市役所所在地)
    • 住所…青梅市東青梅1丁目11番地1号
    • 東経…139度16分30秒
    • 北緯…35度47分16秒
    • 海抜…186.6メートル
  • 面積・大きさ
    • 面積…103.31平方キロメートル
    • 大きさ…東西17.2キロメートル、南北9.0キロメートル

青梅市の名前の由来

青梅市の名前の由来には、平将門がかかわっています。平将門が、青梅の金剛寺あたりを訪れた際に、馬の鞭に使用していた梅の枝を自ら地面に挿し、「願いがかなうなら咲き誇れ、叶わないなら枯れよ」といったところ、梅の枝が根付きました。ところが、この木の梅は青いまま熟さず、枝に残ったまま落ちることがありませんでした。これを見た人々が不思議に思い、この地を青梅と呼ぶようになったと伝えられています。

青梅市の沿革

青梅地方は多摩川および荒川水系の豊かな水に恵まれ、早くから狩猟生活を中心とした集落が発達しました。そのあかしとして、これら河川の流域からは旧石器時代、縄文時代の遺跡が数多く発見されています。弥生時代になると霞川流域では稲作も行われ、水田がひらかれて都内でも最大規模の集落が形成されるようになります。人々は農耕型の生活に移行しながら、奈良・平安時代を経て集落はさらに拡大しつづけました。

また、平安朝には武蔵国府造営のための用材供給地としても集落が形成され、鎌倉時代のころから土豪の三田氏が豊富な林産資源を背景に勢力をのばし、多摩川上流域を支配するようになります。三田氏は、天寧寺、塩船観音寺、住吉神社、武蔵御嶽神社などの神社仏閣の創建再興に力を注ぐとともに、市場を設置するなど経済基盤の充実にも努め、永禄年間(1558~1569)に北条氏照に滅ぼされるまで約300年にわたって青梅地方に独自の文化を築きあげました。北条氏が天正18年(1590)に滅びると徳川氏が関東に入国、やがて江戸開府を迎えると青梅の大半は幕府の直轄地となります。江戸の経済・文化の発展にともなって、青梅では石灰、木材、織物などの産業が活況を極め、青梅地方一帯はさらに発展します。多摩川の水運や、青梅街道の整備によって、江戸市場にもっとも近い産地という優位性が発揮されたわけです。

このように発展した青梅を中心とした40か村の村々は、明治22年(1889)市制町村制によって1町6か村に統合され、明治27年には立川・青梅間に鉄道が開通します。そして、昭和26年(1951)に青梅町・霞村・調布村が合併して「青梅市」が誕生しました。さらに昭和30年(1955)には、隣接する吉野・三田・小曾木・成木の4か村が編入されて現在の市域となりました。現在は、まちの基幹産業だった織物業や林業は構造不況によって衰退し、往時をしのぶことはできませんが、工業団地造成による企業誘致や、観光資源の活用による新たなまちづくりが進められています。そして、西多摩の中核都市「青梅」の役割とその将来性は、圏央道青梅インターの開通によってにわかに高まりつつあります。

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